沖縄県宜野湾市。この地に根を張る、業界歴60年の名物社長の存在を読者諸兄は、ご存知だろうか。看板資材の営業マンとして、1960年代には塩ビ板からアクリル板にマーケットを塗り替え、カッティングプロッターの黎明期には1日で20台のマシンを売りさばく凄腕だ。今年で82歳を迎える現在も、離島まで納品に出向き、国外の展示会すら情報収集で巡る。彼の経営哲学は「お客様第一主義」。給料は会社ではなく、顧客が作ってくれるものだ、と常々社員に言い聞かせる。今回は業界の生き地引、沖縄アドサービスの白間弘造社長にスポットを当てたい。
サンロイドからアクリルに市場を変えた立役者
1960年代、白間弘造氏は看板製作も取り扱う沖縄の総合商社に入社。名札やゴム印の文化を国内浸透させたことで著名な企業である。以来33年間、白間氏は営業職として活躍。入社当時から英会話が得意で、英文のタイプライターもそつなく打てたことから、主に米軍基地を担当してきた。
会社一筋で33年間、さまざまな営業を経験してきた白間氏。学研が20周年に発刊した辞典は全国一位の販売実績をたたき出し、プロパンガスは沖縄で初めて営業展開するなど、看板以外のBtoC領域も数多く手がける。当時高額だったエアコンや冷蔵庫のリース販売もいち早く着手。米軍人が約2年で帰国するところに着目し、それらの白物家電を安く買い取って、誰もが手軽に利用できるようリースで提供してきた。
一方の看板部門では、60年代の主流であった塩化ビニル樹脂プレート・サンロイドに替え、塩害などの耐候性に優れるアクリル板の普及に力を注ぐ。看板の職人間で、アクリルという単語にすら馴染みのない時代から営業をスタート。ペンキ描き、マーキングフィルム、シート貼りと時代に左右されない汎用性の高さも後押しとなり、アルミ複合板がメーンに替わる2014年頃まで続くロングセラー商品に導いた。この自社オリジナルのアクリル板が、前職の資材販売事業を牽引してきたのだ。
「一点物だからこそ、看板は面白い。現在でも私は、看板屋さんへ営業に出向くのが楽しみで仕方ないのです。『こんな看板を作りたいんだけど、何か良いアイデアやツールはないものか』。このような相談を受けるのは、営業冥利に尽きますし、皆さん私の意見に対して真摯に耳を傾けてくれる。長年業界に身を置かせてもらっていますが、どこの会社へ行っても、皆看板が好きだと伝わってきます」
座して死を待つよりは、出でて活路を見出さん
時を経て1993年12月、白間氏は55歳にして独立する。奄美大島の出身で、決して豊かな生活環境ではなかった幼少期、生きることは戦いであり、土日も関係なく勉強と仕事の手伝いに明け暮れたという。心に刻まれた反骨精神が、白間氏をずっと支えてきた。だからこそ、55歳ながら資材販売の新会社「沖縄アドサービス」を立ち上げ、27年経った81歳の現在も社長として先陣で指揮を執る。
「今まで仕事が辛いと思ったことは、一度もないのです。会社を寝床にしていた時期もありました。生きていくには、仕事は欠かせません。むしろ忙しいのは有難いですし、生きがいでもあります」
創業1年目は順調に売り上げも伸びていったかのようだった。しかし、早くも2年目で倒産の二文字が白間氏の頭によぎる。飛ぶ鳥落とす勢いで会社が成長していくなか、市場競争が厳しくなればなるほど、資金面で体力のない若い会社は窮地に陥ってしまう。この典型的なパターンにはまった。それを救ったのは、長年付き合ってきたメーカーの担当者らだったー。「とことん支援するから自分を信じて頑張れ」。白間氏は会社立ち上げから2年もの間、無休・無給でやり繰りし、持ち前の負けん気でどん底からはい上がる。
「経営が安定するまで5年以上、忍耐の時期は続きました。当時、メーカーや取引先の皆さんの助けがなければ、今日の私はないでしょう。しかし、そこに生きがいはあっても、怖さはありませんでした。働けば働くほど、サラリーマン時代に得られなかった『財産』が築かれていきました。むしろ、独立をしていなければ、私は死んでいたと実感しています」
顧客数は、創業当時が20社程度であったのに対し、現在では350社を上回る。これは沖縄県内の看板業者のほぼ総数にあたり、取引口座を持たない企業は少ない。言い換えれば、県内看板屋のほとんどが、白間氏と面識を持つと言えよう。