9. 中川ケミカル 中川 興一社長

1966年にカッティングシートを発売してから50年以上にもわたり、装飾用シートのパイオニアとしてサイン業界をリードしてきた中川ケミカル。現在でも、サイン製作や空間演出に欠かせない商材メーカーの地位を、不動のものとしている。 その基盤を根幹からつくったのが、現会長の中川幸也氏だ。同製品を開発し、世に広めたのはもちろん、背中で部下を引っ張っていくカリスマ性を武器に会社を拡大させてきた。そしてその後を継いだのが、現社長の中川興一氏。時代の変化に合わせ、トップダウンだった会社をボトムアップにつくり変え、さらなる成長に導いている。 ではどうやって、まちの看板屋だった前身の中川堂が、業界の革命児となれたのか。「看板は手描きでつくるもの」という固定概念を変え、サイン市場にパラダイムシフトをもたらしたカッティングシートの歴史を開発経緯から振り返っていくとともに、親子2代によって紡がれてきた、同社の足跡を追う

創業時から受け継がれてきたはっぴ。表面の汚れや色褪せが長い歴史を象徴している

初志貫徹が実を結び、商材メーカーの地位を確立

カッティングシート。この言葉を、まるでマーキングフィルムの一般名称のように使っている業界人は、一体どれほどいるだろうか。それほどサイン業界に根強く浸透しているのが、中川ケミカルで商標登録された粘着剤付き装飾用シートだ。

店舗看板や屋内装飾はもちろん、ウインドウグラフィック、車両装飾のワンポイントなど、あらゆるデザイン表現に利用される「カッティングシート」。単色をはじめ、メタリック、蛍光、透明を含めた全273色の豊富なバリエーションを持つレギュラーシリーズのほか、テント生地、ベニヤ板といった荒い素材に貼れる強粘着タイプの「テンタック」、屋外耐候性に優れた「ノックス」「タフカル」、透明ガラスに貼るだけでスリガラス仕様にできる「フォグラス」、本物の金属箔、和紙の素材を使用した「MATERIO」など、さまざまな用途に合わせた多彩なラインアップを取りそろえている。1966年に発売開始して以降、手描きを主流としてきたサイン業界に切って貼る文化を定着させ、今やサインや空間演出においてなくてはならない素材にまでなった。ある意味で、革命を起こした製品と言っても、過言ではないだろう。

「優れた空間デザインに対して、僕たちはどう貢献していけるのか。『色の力』を使って人々の役に立ちたいという思いは、常に持ち続けています」と、目に光を宿して語るのは、中川興一社長。それは、かつてカッティングシートを開発し、世に広めた先代の幸也氏から、連綿と受け継がれてきた心意気だ。その姿勢は、事業ミッションに掲げられている「人間空間に色をさす」という言葉にも表れており、会社設立から約50年が経っても、一寸の狂いもない。

しかし、その道は決して平たんではなかった。同社のルーツは、1936年にまでさかのぼる。先代・幸也氏の父、健一氏が、大八車の製作を生業としていた中川製車場という会社を受け継ぎ、後に前身にあたる中川堂を設立した。1936(昭和11)年の11月11日と、1並びのゾロ目でゲンを担いでの船出だったそうだ。その後、第二次世界大戦の荒波を乗り越え、事業を再開する際に、焼け野原になってしまった辺り一面を見て一念発起。「これから新しく建つ建物には、看板が必要だろう」と、店舗の内外装工事を手がける会社へと舵を切った。

サイン業に従事するようになり、さらなる転機は1961年に訪れた。当時20歳の成人式を終えて帰宅した幸也氏が、「まちの看板屋の枠を超えて、業界全体のためになるような製品を生み出したい」と決意を伝えたのだ。あまりの熱意に健一氏も感銘を受け、その旨を受諾。社内に新素材開発部を立ち上げ、製品開発に着手した。

そこから5年後の1966年、ついにカッティングシートのプロトタイプが完成。貼る時にどうしても気泡が入ってしまう、という施工上の課題もあったものの、貼り付け時に水を使うというアイデアで、発売から間もなく解決した。電飾看板にセロファンを付ける際に、それを膠の溶液にひたし、伸ばしながら貼るときれいに気泡が抜けるというサイン製作の技術から着想を経て、同じ方法を応用できるのではと閃いたのだそうだ。しかし、そこまで使い勝手を追求しても、簡単には売れなかった。

そもそもの話、当時はまだ手描き看板の時代。塗料に代わる材料と言われても、「剝がれてしまわないか」「ペンキで十分ではないか」と職人からの疑念は尽きなかった。ましてや、長年修行して塗りや手描きの技術を高めてきたという矜持もある。業界内になかなか受け入れられず、発売から何年もの間、売り上げは振るわなかった。

それでも、幸也氏は信念を曲げず、ひたむきに製品改良を続けた。風向きが変わったのは、発売から6年の月日を経た頃。施工に乾かす時間を要さず、撤去時に剥がせるという塗装にはない特徴が評価され、国鉄(現:JRグループ)で採用されたのだ。後を追うように、成田空港内の案内表示にも利用され、製品の認知は一気に進んだ。「大手に選んでもらって救われたと、父からは聞いています」と興一氏も破顔する。初志貫徹のぶれない芯の強さが実を結び、ついに業界から認められたのだ。

そこからの急激な普及は、周知の通り。順調に業容を拡大させ、1975年には、中川堂から分離独立する形で、中川ケミカルが誕生した。その後、1980年代後半を迎えると、世間はバブル経済期に突入。景気全体が上向くなか、CI・VIブームも重なり、カッティングシートの売り上げも絶頂期を迎えた。さらに他メーカーからは、シートのカットをサポートするカッティングマシンも生産開始。中川ケミカルの名前は業界内で知れ渡り、年商は50億円を数えるまでに成長した。

長年の粘着材に対するノウハウをもとに、施工性も抜群なカッティングシート。ハサミやカッターでも切れる上、ガラス面であれば簡単に剥がせるのも特徴のひとつだ

淡い透明色を特徴とする装飾用シート「IROMIZU」、目隠し用途として使用できる「フォグラス」など、多彩な表現力、活用用途を持つカッティングシート

2代目入社のきっかけは父の一言
下っ端から這い上がる若手時代

順調に売れ行きを伸ばすカッティングシート。業界に浸透したのとタイミングを同じくして生まれ、4人兄妹の長男として、姉妹3人とともに育てられたのが現社長の興一氏だ。幼児期の遊び道具は、もっぱらカッティングシート。家のなかには、貼る専用のスペースがあったほどだという。「生まれてから、誰よりも長く触れて育ってきたという自負があります。英才教育ですね」と、冗談っぽく笑う。

また同時に従業員からも、まるで本物の息子のように、家族ぐるみで大切に育てられた。「おそらく皆、いつか僕が中川ケミカルに入社するんだろうと、当たり前のように思っていたのではないでしょうか」と当時を振り返る。

とはいえ、学生時代の興一氏に、そんな気持ちは毛頭なかった。気持ちが変化したのは、奇しくも父の転機と同じ、20歳になった時だ。幸也氏が酷い喘息を患い、大きく体調を崩してしまった。否が応にも引退の文字もちらつき、興一氏は会社の行く末を真剣に考えたという。ベッドで療養する父と、人生で初めて面と向かって話した。「僕の将来について、どう考えていますか? 何もなければ、会社とは関係のない仕事をします」。しかし、返ってきた答えはシンプルで、「でも、結局やる(継ぐ)んだろ?」のたった一言。心のどこかで、ずっと会社をおもんぱかる気持ちがあったのを、幸也氏は見透かしていたのだ。

その言葉で決意を固めた興一氏は黙って頷き、1999年に同社へ入社。だが、将来の後継ぎ息子として優遇されたところなど、何ひとつなかった。体育会系で年功序列を重んじる社風に従い、一般の社員と同様に下っ端からのスタート。当然、代表者である父とも社内ではなかなか顔を合わせられない。「実力でのし上がらなければ跡は継がせない」と、釘を刺されている気分だった。

そこから10年間は、営業スタッフの一員として経験を積む日々が続いた。担当地区の対応はもちろん、飛び込み営業や飲みによる接待も日常茶飯事。ただ、幸い苦とは思わなかった。毎日ただひたすらに人と会うのを繰り返し、自社製品への知識とコミュニケーション力を磨いていった。なかでも印象に残っている仕事は、トラブルの際に駆り出されたクレーム処理だ。持ち前の明るさを生かし、誠意をもって謝ったり、正しい取り扱い方を説明したりすれば、かえって以前よりも仲良くなれた。「クレームはある意味でチャンスだと、心に刻み込んでいます」

そんな仕事面が功を奏したのか、2009年には再び東京本社に呼び戻され、そのまま営業部長へ就任。初めて役職が付いた。トップダウンで、上下関係の礼儀を大切にする同社にとって、これは異例の辞令だった。当然、周囲からの期待も大きくプレッシャーもあったが、モチベーションに変えて、臆せず身を粉にして働いた。

そして、興一氏の異動をきっかけにして、社内の風潮も少しずつ変わっていった。営業部内の年功序列を良い意味で廃止し、若手であっても責任のある役割を担い、ベテランも希望に合わせて現場に配置するなど、興一氏が適材適所で役割を当てはめたのだ。当時はリーマンショックもあり、ちょうど日本全体が不景気にあえいでいた頃。同社の売り上げも低調気味で、働き方に関する時代の変化も手伝い、何かを変えるちょうど良いタイミングになった。

役割分担により、業務効率は改善。その功績が評価され、みるみると昇進し、周囲からのサポートも受けつつ、営業部長、取締役と順調に駆け上がっていった。徐々に自身の裁量で決算できる範囲や管理する部署の数も増えていき、2013年、ついに幸也氏からバトンを託され、社長へと就任した。

本社ビルの3階に設置された「CSデザインセンター」。約1,100アイテムを自由に手にとって確認できるほか、実際の製品をB6サイズにカットしたサンプルも配布している

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