3.変わらず光り続ける ネオンサインの灯火、ネオン管職人

横浜の街の一角で、日々ネオン管と向き合う職人がいる。1980年代、アメリカンカルチャーに魅了された青年が、今なお、ガラス管一本一本に魂を吹き込む姿を追った。

職人を育てた横浜のカルチャー

片方の端をふさいだガラス管にチューブを取り付け、息を吹き込みながら曲げていく。「曲げるときはガラス管が折れたり凹んだりしないよう、息によって内側から圧力をかけていきます」

横浜市の山下公園のそばに立つツルが絡まる小さなビル。3階の窓に灯るネオン管が、高橋秀信さんが代表を務めるSMILE NEONの目印だ。一見して工房には見えない外観から、バーだと間違えて観光客が入ってくることもあるという。

「最初、独り立ちしたらアメリカに渡って勉強したいと考えていたのですが、このビルの“味”に魅了されて……(笑)ここに自分の工房を持ちたいと強く思いました」

横浜生まれ横浜育ち、生粋の浜っこである高橋さん。米軍ベースがあったことから、アメリカンカルチャーが色濃く根付いていた本牧で青春時代を過ごした高橋さんにとって、ネオンはずっと馴染みのあるものだった。

「本牧は、ネオンサインがいたるところに飾られていて、自然とネオンが彩るアメリカンカルチャーに憧れを抱くようになったのでしょう」

高校卒業後、自動車メーカーのライン工場に一時は就職するものの、「これは違う」と一年で退職し、近隣の小さな看板屋へ飛び込んだ。「転職先に看板屋を選んだ理由は、やはり漠然とネオンへの憧れがあったんでしょうね」

そこで触れたネオンサインの仕事に「これだ!」と感じ、ネオン管の製作を生涯の職とすべく、25歳のときに蒲田のネオン職人のもとへ弟子入りした。

技術は見て盗むもの、という職人気質の親方のもとで、およそ11年ほど修行を重ねた。「最初は、電極付けからはじめて、曲げをやらせてもらうまで5年かかりました。当初は、できないことばかりでしたが、悩んでいる時には『そんなに根を詰めなくていい』と気遣ってくれる優しい親方でもありました」

作業台に広げた反転させたデザイン(裏図)。どの部分でガラス管を切って繋げるか、赤字でチェックが入っている

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