経営危機に舵を切ったLED電光掲示板事業
好景気の波に乗り、順調に年商は右肩上がりだったが、バブル崩壊によって経営危機は唐突に訪れた。前年1.5億円あった売上高は、40%ダウンし9000万円にまで落ち込んだ。何か新しい事業をと模索し、思い至ったのが「LED電光掲示板」の販売だった。車にメーカーから借り受けたデモ機を積んで営業に回ると、大手代理店などから引き合いがあり、大型サイズのオーダーも受け、手ごたえを感じた。大手電機メーカーに図面を渡すと、1台のために製造ラインは変えられないと突き返され、大手がやらないことこそが中小企業の果たす役割とばかりに、ITベンダーと組んで、1点ものの受注生産体制を整えた。
大型サイズの1号機は不動産会社から早々と受注を獲得し、有効利用されていない空き地に新たな広告媒体として設置した。だが、数日のうちにクレームが発生し、現地に赴くと、当時のLEDでは輝度が弱すぎて、日中の屋外では表示が全く見えない状態だった。この難局は、カスタマイズした屋外対応品を再度納入し、クレーム品は屋内用途として新たな売り先を見つけるという、発想の転換で乗り切った。
ある日、県北に全天候型のドームが計画されていることを知り、好機到来とばかりに売り込みに足を伸ばした。役場では予備費も無く検討の余地はないと、けんもほろろに断られてしまった。ピンチはチャンスと諦めず、レポート用紙にこれまでの開発経緯、スペック、価格、得点板や広報板などの用途提案をまとめ、FAXで町長宛に送った。普通なら地場議員の政治力に訴えるところだが、地元への思いが功を奏し、高額な舞台装置よりも、広告収入などで地域に資する製品だと判断され、1500万円での物品調達が決定。この時点で民と官の両方での実績を得ることとなった。
その後、さらなる販売網を拡大するため、思案していたところ、女性スタッフから、「これからはWebの時代です」という鶴の一声があり、ネット黎明期の1999年にホームページを開設。冷やかしばかりになるのではと、当初は懐疑的だったが、蓋を開けてみれば、著名な企業からの問い合わせが多数寄せられた。
大手との取引でハードルとなったのが、会社としての信用。地方新聞社の照会では、稟議を上げる際に、3期分の決算書と登記簿謄本を求められた。米軍三沢基地でも案件が決まりそうになったが、青森支店の有無、つまり納品後のサポートが契約前の障壁として立ちはだかった。
これに応えるべく、企業の信用とも言える「ISO9001」を取得し、対外的なPRの場となるホームページ上でも、今までの実績を写真入りで詳しく掲載した。納品後のフォローは、同友会の横のつながりで、通信・ソフトウェアに精通した電気工事会社のネットワークを築き、現在では全国60社による万全なメンテナンスサービスを提供している。