中国地方の中央部に位置し、古くは備後国の経済を担う国府が置かれた広島県府中市。山と川に囲まれた自然豊かな人口4万人ほどの小都市で40年以上にわたり、地域経済に貢献する看板を製作し続けてきたタテイシ広美社。創業時からカイシャの舵取りを担ってきた代表取締役会長・立石克昭氏は、自らを“情報伝達業”と名乗り、サインのIT化や3Kのイメージが強い業界の働き方改革にいち早く取り組んできた。
最近では、経営者向けのセミナーなどで講演を依頼されることも多く、その経営理念にはさまざまな業界人が熱心に耳を傾ける。立石会長にこれまでの事業の軌跡と、成功や失敗の要因をケース・スタディとして聞いた。
創業時の苦難から得た教訓
カイシャ創業の意志が芽生えた学生時代に遡ると、立石克昭氏の父親は広島県府中市に本社を置く、ダイキャストのトップメーカー・リョービに勤務しており、学業を修めた後の就職先は心配ないと言われていた。しかし氏自身はというと、高校生の時分から誰かに雇われるのではなく、会社を興し、自らの手で経営したいという強い野心が胸にあった。
時は、高度成長期真っ只中の1970年初頭。モータリゼーションの拡大を間近に見て、自動車に関わる会社を立ち上げようと漠然とした将来像を描いていた。試行錯誤の末、絵を描くのが好きだったこともあり、車にイラストを描くという2つの夢を同時に叶(かな)えられる看板の道を選んだ。思い立ったその日から、学生ながらにして、地元の看板製作会社に頼み込み、アルバイトとして入社。職人の仕事を見て盗む日々が始まった。しかし、地元に将来、競合社ができるのを疎まれたためか、雑用ばかりを押し付けられ、実際に文字を書かせてもらえることもなく、ここではほとんど得るものはなかった。
そこで一大決心をして、地元を離れ大都市・大阪での修行を決めた。父親から土地勘の無い大阪へ行くことは強硬に反対されたが、押し切って18歳で上阪。5年半にわたり、筆文字の腕を磨いた。
1977年には帰郷して、タテイシ広美社を府中市篠根町で起業。大阪時代に知り合った夫人との結婚もこの年。地元に帰ってはきたものの、ツテもコネも無い状態で、仕事はさっぱりだった。
何でもいいから仕事をと、夫婦2人で始めたのが、当時は鉄製だったベランダの手すりの塗り替え。サビを落とし、サビ止めを塗って、最後にペンキで仕上げる。ハケを持ったこともない夫人が身体中、ペンキまみれになる姿を見て、立石氏は「後悔してないか」と聞いた。すると、「塗っていくことで、ボロボロだったベランダがどんどんキレイになっていく。こんな楽しい仕事はない」と笑顔で返され、自然と涙が頬をつたったことは、今でも鮮明な記憶として残っているという。